鮮やかな人生へ

あまりにも前期は多忙で、というか心から吐き出すという行為にある種の抵抗を持ち始め、でもやはり吐き出したいと思った訳で、そろそろレポートも全て片付きそうなので、久しぶり書いてみようかなと思ったので、書いてみた。蝉の鳴き声は焦りを掻き立てる。

 

近所の公園の近くを歩いていると、子供同士がさよならを言い合う声が聞こえた。

きっと彼等は近日中にまた遊ぶのだろうけれど、お互いが違う方に帰り行くその姿をみていると、やはり私は未だに終わりに恋しさを抱いているのだと痛感させられた。

おて手を繋いではじまることより振り払い終わりの虚無感喪失感、ついでに言えば空腹感、何より人生を色褪せてくれる出来事を性懲りも無く大変好んでしまう。

格好をつけた言い方になってしまうわけだけど、普通に生きていく人生が、私にはあまりにも鮮やかすぎて息がしづらく生きづらい。

満たされた状態で歩く太陽の下はなんて幸福で気分が悪くなるものだろうか、と所詮暖かな日の下で生きてきた身分で言ってしまう。

しかし、強すぎる色に吐き気がしてしまうのはきっと私だけではない筈だ。

毒々しさに弱い私には耐えきれないのだ。

夏が嫌いだ。好きだけど。まるで明るく陽気であることを、祝福しそれを是として照らす太陽のなんと憎いこと。

けれどもだから私はそれに毎年迎合してしまう。

まるで鮮やかな色が好きなように、まるでその手を振り払えないかのように、色褪せることを怯えるかのように。

鮮やかな色は目に残り続けるわけで、もう形なんて何も覚えていないの頭には色がチラつき続けるこの呪い。解像度の低い画が浮かび続ける。

 

話は変わるがもうすぐ私は進路を選ばなければならない。民間は向いてないよと何度も言われ、その度になんとも言えない気持ちになった。

しかし確かにその意見は正しいような気もするわけで、今のところは院へ行くかと悩んでいる。が、院へいってどうするのか。いやどうするかは大体わかるのだがこの学生という身分を早く終わらせたい気もするのだ。

学生という16年間連れ添ってきた相手との別れは如何様なモノなのだろうか。

やはりそれはひどく喪失を感じるのだろうか。

まぁ労働しなければ、という圧を強く受け始めるイメージしかないのだろうけれど。

しかし私はそんな彼の手を振り払えるのだろうか、いや振り払えないからこそ院へ進もうとしているのだろうか。

私が学び研究したいことは、私の人間への虚しさ故に現れていることである。

だからそれについて学びを深める度に納得し、落胆し、また落ちる。その感覚が酷く好きでずっと考えていられるのだけれども、どうにも人生に支障をきたしそうな歪みというか芯ができてき始めるような気もしてしまっている。

私は人が大好きであると同時に消耗品として扱う現実に辟易してしまって嫌悪している。

大好きな人間を使う人間に、自分に、悲しくて辛くて、目を背けてしまう。

目を背けけて、忘れてしまうようにするが、それは鮮やかさを目にする度に強制的に思いだされてしまうものでもある。

だから私は鮮やかな始まりを切り続ける日常に吐き気を感じるのだ。

 

私達は切り取られた一瞬を、大事にしまっていた筈なのに、いつのまにか燃やして消している。

最近も家にあった、大切であった一瞬を粗大ゴミと一緒にぜんぶぜんぶ捨ててしまった。

私の許容量は2000年代並みで止まっているのだ。また少しずつ、一瞬が壊れ、ファイルが開けなくなりつつある。

今の僕はあの日の君に胸を張れるのだろうかなんて歩いていこうとする自分の気持ちに苦笑いしてしまう。

忘れたあの子を振り返ることはもうできない。消してしまったあの子に少し寂しさを感じつつも私の為に色を、形を消してもらうことにしよう。

 

思い出すという行為を自身が最も嫌悪していた筈なのにそれを行いつづける私に罰は下るのだろうか。どうかこの夏は始まりも終わりもないものになるように。蝉の鳴き声を聞きながら思うばかりである。

 

鮮やかなあなたの色は。