誠実さ、というものはどこにあるのか

※かなり乱文になっているので注意

基本的に主張は変えず微妙に書き直したりしてます。

 

 

少し前まで茹だるような暑さに辟易していた気もするのだけれど、いつのまにか寒さが厳しい季節になっている。

眠る度に毛布をだそうかなと思うのだけれど、春先の私は何を思ったか自分じゃ手が届かない場所に仕舞い込んだため自力では取り出せない。

少し前までは鬱々と鬱に生きていたのだが、ある程度の諦めを覚え、ここ最近は楽しく生きている。そのため吐き出したい言葉も大してないのだが、ふと友人との会話を思い出し、考えていたので書いてみることにした。

 

 

さて思い出した友人との会話はざっくりといえば、誠実さ にについてである。

私は恋愛脳というか、人間が好きなのでよく人間関係のありようについて話すのだがその際によく"誠実さ"というものが話題にあがる。

 

猫も杓子も口を開けば誠実な人がいいだとか、誠実に人と向き合うことが大切だとのたまっているのを耳にする。

このような書き方をするとまるで私が誠実さを軽視しているように聞こえてしまうがそのよう主張をしたいのではない。

誠実さ、誠実であるということ、はあまりにも多様であるのではないか、安易に使うべきではないか、と思い悩みそれを整理するため今回ここで話す話題にしたのだ。

 

誠実とはそもそも偽りがなく真面目であること、本当であること、そのさまをさすことばである。

 

よく私は人のことを覚えていられなくて、注意されてばかりいる。それこそ名前や顔、エピソードがない個人情報は何度も聞かなければすぐ忘れてしまう。話したことは覚えているけれど、それが誰と話したことであったかについては忘れてしまう事が多い。

ついでにいえば、これが特に非難されることが多い行動なのだが人との関わり方にかなりムラを出してしまう傾向にある。例えば一定時期には毎日のようにLINEをし電話をかけ、遊びに誘うけれど、ある日パタリと自分から連絡をとることをやめてしまったり、とか。

嫌いになったわけじゃない。単純にネガティブな意味なく飽きただけなのだ。

同じ文章を読み返すのも勿論楽しいのだけれど、それにも限度がありそれと同じことだと思っている。言い方は悪いがただの人間が、例えば一週間で得られる経験知識エピソードなんてものはたかが知れていてすぐに消費できてしまう。だからまたその子が溜まるまで、違う子と深く関わっているだけにすぎないのだ。

こう言うと短期的にあまりに密に関わるのがいけないのでは?という指摘をされるが読み始めた本は出てる所までは読み切りたい派なのでという解答しかできない。

また人をモノとし消費している事実も否めない。

 

けれど自分はそんなつもりはなくても、一連の言動から友達には薄情だ、まるで"個"自体には関心がないだとか言われ、最後に、君は人に対して誠実ではないと吐き捨てられる。

まったくもって悲しい話、と思ってしまう。

 

そもそもその個自体に興味をもつとはなんなのか。持ち関わらなければ誠実ではないのか。

 

私はいつだって酷く真面目に人と接しているし、そう出来ないのなら接するべきではないとすら考えている。(別に人に強要するつもりはない)

だからその子と関わりたい時しか関わらないし、そうでない場合はそれを表明している。

 

都合が良いと言えば否定はできないが別に誰しもがそうであると思っているし、自分の感情を偽らず仲良くしたいから仲良くするということが一番の誠実さであると思っている。

 

またこのような話の際に、困っている時に助ける、助けられるような関係が友達として誠実なのではという指摘を受ける。

しかしそれは短期的な時間のみに許された共同的関係ではないかと思っている。

人間関係の話をすると交換的関係と共同的関係が話題にあがり、共同的関係こそが真の関係かのように語られがちだ。

しかし心理的相合扶助の元に成り立っているようなふわふわとしたものを求めたがる気持ちは理解し難い。

結局のところ助け・助けられることによって得られる相互のメリットの合意によって偶々発生している状態にすぎないと思うのだ。

 

何かを貰い、何かを与える、その関係は誠実ではないのだろうか。

 

またずっと友人関係に焦点を当てて話してきたが、深い関わりがある異性との関係はどうなのだろうか。

親交が深い異性の友人の数は、多分人よりもかなり多い方だろう。男好きがと言われてしまえば良い返す言葉は無いし、自分でもある程度の自覚はある。

 

異性の友人、というものの扱い方はヘテロセクシュアルがマジョリティを占めるこの世界の中では同性の友人とは同じように扱うことは難しく中々厄介な性質を関係に孕みがちだ。

別に何があろうとも好きか嫌いか、ただそれだけでいいような気もするのだけれど、中々そうはいかない。

これはつい最近仲のいい異性の友人に言われた台詞がある。

「君はいつだって人の気持ちがわからないふりをして人の気持ちを踏みにじる。それが一番得で楽だから。」と。

(これは性別関係ないんじゃ無いかと言われそうだが、私はどうにも異性を軽んじるきらいがあるのであえて強調してかいた。)

 

しかし、これについても私はあくまで相手に対して誠実であるためにしている言動なのだ。

相手の気持ちに寄り添わない、それこそが異性の友人に誠実でいられる唯一の方法と私は考えている。

きっと不快にしないような言動をしようと思えば、もっと優しく甘い言葉を吐こうと思えば、できなくは無いだろう。

しかし、そこに誠実さはあるのだろうか。

私はいかに傷つかせようとも、不快にさせようともそれをなくせば、誠実さは失われてしまうと思っている。

 

再度書くが、誠実とは偽りなく真面目で本当であることなのだ。

言葉遊びと言われてしまいそうだが、それでも私は私が誠実であるために人を傷つけることを厭わず生きている。

 

ただ、本当に少しだけれど最近それが誠実であるのかがわからなくなってしまった。

誠実さ、というものはどこにあるのだろうか。

それを私は知り、そう人に接することができるのだろうか。

 

私は人に誠実でありたい。

 

 

 

 

 

鮮やかな人生へ

あまりにも前期は多忙で、というか心から吐き出すという行為にある種の抵抗を持ち始め、でもやはり吐き出したいと思った訳で、そろそろレポートも全て片付きそうなので、久しぶり書いてみようかなと思ったので、書いてみた。蝉の鳴き声は焦りを掻き立てる。

 

近所の公園の近くを歩いていると、子供同士がさよならを言い合う声が聞こえた。

きっと彼等は近日中にまた遊ぶのだろうけれど、お互いが違う方に帰り行くその姿をみていると、やはり私は未だに終わりに恋しさを抱いているのだと痛感させられた。

おて手を繋いではじまることより振り払い終わりの虚無感喪失感、ついでに言えば空腹感、何より人生を色褪せてくれる出来事を性懲りも無く大変好んでしまう。

格好をつけた言い方になってしまうわけだけど、普通に生きていく人生が、私にはあまりにも鮮やかすぎて息がしづらく生きづらい。

満たされた状態で歩く太陽の下はなんて幸福で気分が悪くなるものだろうか、と所詮暖かな日の下で生きてきた身分で言ってしまう。

しかし、強すぎる色に吐き気がしてしまうのはきっと私だけではない筈だ。

毒々しさに弱い私には耐えきれないのだ。

夏が嫌いだ。好きだけど。まるで明るく陽気であることを、祝福しそれを是として照らす太陽のなんと憎いこと。

けれどもだから私はそれに毎年迎合してしまう。

まるで鮮やかな色が好きなように、まるでその手を振り払えないかのように、色褪せることを怯えるかのように。

鮮やかな色は目に残り続けるわけで、もう形なんて何も覚えていないの頭には色がチラつき続けるこの呪い。解像度の低い画が浮かび続ける。

 

話は変わるがもうすぐ私は進路を選ばなければならない。民間は向いてないよと何度も言われ、その度になんとも言えない気持ちになった。

しかし確かにその意見は正しいような気もするわけで、今のところは院へ行くかと悩んでいる。が、院へいってどうするのか。いやどうするかは大体わかるのだがこの学生という身分を早く終わらせたい気もするのだ。

学生という16年間連れ添ってきた相手との別れは如何様なモノなのだろうか。

やはりそれはひどく喪失を感じるのだろうか。

まぁ労働しなければ、という圧を強く受け始めるイメージしかないのだろうけれど。

しかし私はそんな彼の手を振り払えるのだろうか、いや振り払えないからこそ院へ進もうとしているのだろうか。

私が学び研究したいことは、私の人間への虚しさ故に現れていることである。

だからそれについて学びを深める度に納得し、落胆し、また落ちる。その感覚が酷く好きでずっと考えていられるのだけれども、どうにも人生に支障をきたしそうな歪みというか芯ができてき始めるような気もしてしまっている。

私は人が大好きであると同時に消耗品として扱う現実に辟易してしまって嫌悪している。

大好きな人間を使う人間に、自分に、悲しくて辛くて、目を背けてしまう。

目を背けけて、忘れてしまうようにするが、それは鮮やかさを目にする度に強制的に思いだされてしまうものでもある。

だから私は鮮やかな始まりを切り続ける日常に吐き気を感じるのだ。

 

私達は切り取られた一瞬を、大事にしまっていた筈なのに、いつのまにか燃やして消している。

最近も家にあった、大切であった一瞬を粗大ゴミと一緒にぜんぶぜんぶ捨ててしまった。

私の許容量は2000年代並みで止まっているのだ。また少しずつ、一瞬が壊れ、ファイルが開けなくなりつつある。

今の僕はあの日の君に胸を張れるのだろうかなんて歩いていこうとする自分の気持ちに苦笑いしてしまう。

忘れたあの子を振り返ることはもうできない。消してしまったあの子に少し寂しさを感じつつも私の為に色を、形を消してもらうことにしよう。

 

思い出すという行為を自身が最も嫌悪していた筈なのにそれを行いつづける私に罰は下るのだろうか。どうかこの夏は始まりも終わりもないものになるように。蝉の鳴き声を聞きながら思うばかりである。

 

鮮やかなあなたの色は。 

20歳を終えて

20歳ももうすぐ終わろうとしている。

最近の意味がわからない寒さゆえに中々眠れないのでなんとなく一年を振り返ることにした。

それもこれも長らく電池切れのクーラーのリモコンのせいである。来年には着くことを祈りたい。まぁまたかと言われそうだが3月には引っ越すからあまり意味ないんだけど。

少し話は脱線するし費用云々の話も絡むからあまり言えないけれど、同じ場所にずっと住める人を本当に尊敬する。一年以上も同じ場所に帰り、ご飯を食べて眠るなんてどんなメンタルしてるんだと問いたくなる。何故発狂しない。

私は無意識の日常生活が作業になりそうでどうしても嫌だ。まぁ病んでる時はそちらの方がいいんだけど。

後は何より記憶が蓄積していく感じが不快。

一つの皿に色んな料理をぐちゃまぜにのせちゃってる様な感覚だ。

とまぁさておきそろそろ振り返ることにする。

 

△2020/1月/2月

・20歳になった

有難いことにその当時付き合っていた方に祝って頂いたので楽しい誕生日だっだ。

まぁこの数週間後に壮絶な別れ方をしたがそこは割愛しよう。

・期末のテスト4つブッチ

上記の理由でメンタルが病んで帰省したから。

しかし何を隠そう期末テスト期間と丸被りなので恐ろしいぐらい落単した。勘弁して。

今年そのツケを払っている。

・人間関係遮断

とりあえず暫く人と全く話さなかった。

LINE Twitterインスタ全てを消しさり寝続けた。久しぶりに連絡したとき若干怒りながらも許してくれた友人の懐の広さは計り知れない。

 

△2020/3月/4月/5月

・敵対人物と友好関係を築く...?

凄くばちばちしてた人、というか元彼のもう一人の女の子なのだがその子となんやかんやで仲良くなり最終的に4月頃にはサシで遊べるレベルになった。

今思えば色んなものに目を瞑って無理やり仲良い風にしてただけなのかもしれないが。

事実その人とはすぐ疎遠になってしまった。

当たり前だ。だけど死にたくなるぐらいにはその子のことが嫌いじゃなくて暫く色んな幻想を思い浮かべては自身で首を絞めていた。

・コロナ流行り始める

なんかしらんけどこの辺りでコロナ流行り始めたよね??忘れたけど。

病んで帰省して暇だったのもありひたすら誰かと通話してた記憶がある。お付き合い頂いた方々ありがとう。大変感謝。

→ついでにzoom飲み会のピーク

この時期は自粛要請が出始めて外出する人の人権がなかったからみんなzoomしてたよね。

でもまぁ2回目が開催されない。

まぁ気持ちはわかるけど。

 

△2020/6月/7月

ラーメン二郎を始めて食べた。

初めての体験で印象深いのだがなんせ食べた後気持ち悪かった記憶が強すぎて味に対する感想が皆無。まぁでも美味しかった気がする。

・美術館巡りに勤しむ

このごろぐらいになると美術館が再開し始めたので空いてて快適そうとか思い馬鹿みたいにいった。一週間で3つぐらいいく時もあった。

しかしながらなんせインドアなので体調を崩してしまったのはいい思い出。

Uberにはまる

お前もとからヘビーユーザーだろという声は無視させて頂く。"コロナだから"この言葉をフル活用し昼晩全部Uberしてたらえらい値段になった覚えがある。カードの明細をみてちょっと焦ったのは久しぶりのことだった。

・MVを作成

遥か昔のように感じるがこれぐらいの時期だよね、完成したのは。私が指揮をするとどうなるかを痛いほど実感した。仕切る力皆無で泣けた。しかしながら他の方々は優秀だったので無事完成させることができた。もうあの曲は聴きたくないと思ってたらカラオケで歌われたので鬱。

 

△2020/8月/9月10月

・超ショートフィルムを作成

一分くらいのすごい短いものだったけれど作りました。めっちゃ暑い中集まってくれた部活の方々に感謝しかない。セーラー服の女はかわいい。以上です。ただ脚本かけば恋愛ものしか書いてないのでそろそろこの頭どうにかしたい。

まぁ恋って楽しいししょうがないか。

なにより一番に大事にするものに人間がでると思っている。私はいったい自分が何を大事にしているかまるでわからないけれど。

・長編の脚本を書き出す

セクシャリティの問題について現実で関わることが多かったかもしれないがまぁそれに焦点を当てた映像をとりたくなって書き始めた。

性描写に無駄にこだわりがでてしまった。

未だ撮影できてないことにかんしては本当にすいません。本当に。

心身共にというか、今回は身体を完全に壊してしまってどうしようもなかった。

元々極端な人間であるのは理解していたがそこで理性がなくなると私は迂闊に軽率に死を選択してしまう。

 

△2020/11月/12月

・旅行した。

11月だから許して欲しい。だってGOTOしてみたかったんです。高校生の時ぶりに新潟に行った。お酒の中でもやっぱり日本酒が一番美味しいなぁと思った。新潟駅に行く際は駅構内にいるハチ公のパクリみたいな犬を見てほしい。とくに何といった特徴があるわけじゃないがなんか感動するかもしれない。あと温泉はやっぱり素晴らしい。またどこかの温泉に行きたいなとおもったが、暫くは自粛しないといけのでLUSHで我慢することにしよう。

・入院した

人間に対する価値を見出せなくなってしまった。自分も含めて。それにより軽率に自殺未遂にはしってしまった。

中学生の時に一度ちゃんと死のうとしたことがある故か(具体的な記述はグロいので避けるけど)、私はどうにも死にたいするハードルが低くくてコンビニに感覚で行ってしまう。

しかし過保護な周囲な人々のおかげで、せいで今回も生きながらえてしまったのだ。

一年半ぶりぐらいに泊まった病院は普通に普通に不快だったし疲れた。

あとこれをきっかけにもう普通に就職するのは辞めることにした。就職しなくても稼ぐ術はあるし、多分社会にでたら本当に死ぬなと思ったので戦略的撤退。をすることにした。

・再会

1年ぶりぐらいに再会した人がいる。

あまり、というかかなり険悪な感じで別れた人だったのだけれど色々あり再会することになった。最初はぎこちなかったが和解することができた。これは私が少しさめたからだろうか。わからないけれど、以前のような関係性を構築できたら嬉しい。と、少し思う。

 

 

20歳も色々あったが、私は21歳になった。

今年はどんな出来事や人に出会えるのか、とても楽しみだ。

忘れがたい出来事を、思い出にしがたい人を見つけることができるだろうか。

 

あなたにとって大事なものは何?

という質問に私は答えることができなかった。

いつか答えられる日がくることを祈り21歳も始めることとしよう。

 

今年もよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

癖を語る×騙る


寝るときに足首をつかむ癖があります。

苦しいので掴みます。

1人で寝るのに慣れたのはいつからでしょう。あかちゃんみたいに丸まって、ダンゴムシが如く丸まって眠りにつきます。

足首じゃなくて首手首でもいいんだけど。

どこかしらを掴まないとうまく寝れません。

ついでに言うと一人でベッドで寝るのが大変苦手です。すごく休み過ぎてしまうから苦手です。7日あれば5日はオフィスチェアの上で眠りにつきます。残り2日は流石に横になります。

寝るのが怖いです。

昔から寝るのがすごく苦手です。

眠りにつく前のふわふわとした感覚は未だに慣れません。毎日気絶するように眠りたいですが如何せん活動量が多い人間でなないので上手くはいきません。一人で寝るのが苦手なら誰かと寝るのは得意なのかと思う方もいるかもしれませんが尚更苦手を極めています。

血縁であって同じ部屋にいられると寝れないことが大半できっちりとドアと窓をしめ、ついでに鍵をかけたらようやく眠れます。

まぁお酒が入ってたら無条件に寝てしまっていますけどね。

だから私が素面で隣で寝られる人というのはかなり貴重なわけです。 

これの不思議な所は寝れる寝れないの基準が相手との親密さで決まっているわけではないところです。そんなに知り合って期間が長いわけでもない人の隣でぐっすりこと眠れたのに小学生からの友達の側では寝れないなんてこともしばしば多々。

寝たふりも手馴れたものになってきます。

私は元々睡眠時間が短いので、年々短くなっていき平均3時間ぐらいで生きているのですが、もっと眠る時間が長くなればこの慢性的な寂しさも消えてくれるのかななんて考えたりしています。

 

無表情を作る癖があります。なんせ感情の起伏が激しいタイプなのでそれはそれは抑え込むのが大変なのです。だからまずは形から、つまり顔から押さえ込みます。いつしか悟られなくなりましたが、その無表情が怖いと言われることもあるので最近の悩みのタネとなっています。すごく嬉しい時や悲しい時、イライラした時どんな顔をすればいいのかわかりません。どんな言葉を発せればいいのかわかりません。語彙力もなければ表現力もないわけで感受性は豊かなはずなのに、少し悲しいです。書いてて新しい癖に気づきましたが少し~だ。という言い方をよくします。けど全然少しじゃなくてなんなら大変であることに自分の天邪鬼さを少し感じて笑いました。

 

頸を少々つねる癖があります。これは子供の頃手首をつねっていたら先生に怒られた為バレないようにした結果のようです。嫌なことがあるとつねります。ストレスがたまるとつねります。悲しい時つねります。幸せな時はいいのですが、嫌なことが重なった時は見ている方が痛そうな頸になっていました。この癖ばかりは私自身もよくないなと思っているのですが、一番治りそうにない根深い癖です。

 


とぱっと思いつく癖を書き出してみたわけです。あぁ今日も少し痛む首を掴んで眠ります。みなさん、おはようございます。

 

そういや気づけば頸をつねる癖は消えていましたが、どうにもそれ以上にやっかいな癖が身に付いてしまい、中々私は幸せには死なせてはくれなさそうです。2022.0207

 

 

 

 

 

 

 

プレシャスハートという酒を飲んだ。甘酸っぱかった。

このコロナ禍の中、大きな声では言えないがつい最近実家がある大阪に帰ってきていた。

地元と言えるほど長く住んではいないが、高校時代+浪人一年の計4年は住んでたこともあり中々愛着がある土地だと思う。

つい最近梅田、というか北新地あたりのウイスキーバーに足を運んだ。二日酔いになる度にもう飲まないぞと決心するものの数日後にはまた口にしている。学ばないなぁと思いながらも美味しいしいいかと結論づけた。

このバーは中々レアなお酒が置いてある店で、(なにせ会員制とすこしお高くとまったバーであるから当たり前なのかもしれないが)いつも意外なお酒を飲むことができ気に入っている。

なんやかんやで最初はメニュー冒頭にかかれたおススメを選んでしまうのだが今回はすこし気になるお酒をみつけたのでそれを選んだ。

そう、それがプレシャスハートだ。

どんなお酒か説明してくれていた筈なのだが、なんせ酔っていたのであまり覚えていない。

丁寧に教えてくれていたマスターに少しだけ罪悪感を覚える。しかしながら味だけは確かに覚えている。良い意味で嫌なぐらい、甘酸っぱい味がした。言うのが恥ずかしいが"恋"を味で表現するならきっとこんな味なんだろう。後引く苦さがそれを更に感じさせた。

 

ところで皆さんは青春コンプレックスを持っているだろうか?ちなみに私は死ぬほど持っている。今年はコロナの影響もあり見かけることは少ないが、夏の電車にいる高校生の眩しさは恐ろしい。言っても2、3歳しか変わらない筈なのに無限の可能性をもっているように見える。

正直羨ましくてたまらない。

でも何より、あの透徹な空気感が羨ましい。

よく青春コンプレックスを抱く人は、中高で青春を送れなかった人だという説を耳にする。

制服デートをしたこともある。

自転車を二人乗りして騒ぎ水風船を投げ合った。文化祭等々のイベントも大いに楽しんだ。

なのに私は青春コンプレックスを抱えている。

体験した青春を否定しキラキラとした何かをずっと探しているのだ。

 

帰省中レポートをする為に喫茶店に行こうとしたことがあった。東京の家では徒歩圏内にWi-fiコンセント完備のカフェがあるのだが、実家の周りは少し田舎なため近くにはない。しょうがないと思い自転車で15分ぐらいの喫茶店に行くことにした。久しぶりに高校時代愛用していた自転車に乗った。どうしようもなく涙がでた。

意味がわからないと思うが私にも意味がわからない。なんの涙なのかわからなかったがとにかく止まらず、自転車を一度とめようとした。

しかし漕ぐのをやめれなかった。

止まってしまえば二度とそこに戻れない気がして止まれなかった。結局その日私が喫茶店にいくことはなかった。冷静に考えると正気の沙汰じゃないが、二時間ぐらい自転車漕ぎ続けた。

疲れ果て、その日は何もせず家に帰った。

次の日も今日こそはと思い喫茶店に行こうと自転車にのった。もう涙が出てくることはなかったし、懐かしさを感じることもなかった。

 

コメダでコーヒーを飲んだ。

今まで苦くて飲めなかった珈琲が最近飲めるようになった。少し大人になった気がした。

けれどそれでも私はカフェオレを頼んでしまうだろう。

 

躁鬱喜多方らーめん希死念慮マシマシ

最近は湿度が高くて気持ちのいいとは言えない日が続いている。テンションが上がりきらない。けれどもそんな毎日でもお腹は空くわけで、暑さに項垂れながらラーメンを食べている。そういや最近Uber eatsでラーメンを頼むという禁忌を犯してみたのだが、中々に美味しかった。背徳感が他の食べ物より群を抜いている。煮卵おいしいよね、白身がしょっぱ過ぎるのが良い。

 

とはいえやはりラーメンという食べ物の美味しさをちゃんと味わうのなら店に行くべきだと思い、家を出た。徒歩10分圏内に何店舗かありどこに入るか迷いつつ、また空ききっていないお腹を減らすべく暫くぶらぶらと散歩する。

家は割と都会にある筈なのだが、意外と昔ながらの店も多くてなんとなく懐かしい気持ちにさせられる。駄菓子屋なんて入ったこともないのに、既視感が強いのは何故だろう。入ってみたいな、なんて思うが中途半端に大人になって恥じらいを身につけたが故それは叶っていない。

 

歩いていると次第に猛烈な悲しみに襲われた。

虚無感とでもいうのだろうか。大学に入ってからは特に襲われることが多くなったのでホームシックに近いものなのかな、なんて笑うことしてラーメンを食べた。

その時ふと昔とある人と今みたいな感じでグタグタしながら食事をしたのを思い出した。

人の記憶の結びつきは侮れないものだ。

 

ところで思い出した、って言われるのなんかきつくない?と思った今日この頃。

最近昔懐いていた人に、○○をみて君のことを思い出したんだよねぇと言われた。それだけ聞けば嬉しいような気がするじゃない。けど、なんとなく悲しくなってしまった。当たり前なんだけれど私は貴方の意識下にいなかったわけね、と。忘れてたから思い出せるんだよ、とメンヘラみたいなことを言いそうになった。忘れてたというわけではないんだろうけど。それに私もその人からそんなLINEを貰うまで意識下になかったし責められた話ではない。

無いんだけれど、その人が私の事を思っていない意識にイラついた。恋愛的好きなわけではない。けど、想われたい。こんな感情を友達等に向けてしまうのはきっとめちゃくちゃに強欲だからなんだろうなと少し反省した。

まぁしかし病みたくはないので、自分は縛られたくないけれど相手は縛られていてほしいって人々多くない?と正当化してみたりする。なんせ私の周りは自分がある人ばかりでそんな方々が好きな反面、正当化しなければ劣等感的なものに苛まれてしまう。

 

そんなこんなで今日も今日とて泣きながら帰路に着いた。最近涙腺のとおりがいい。2日一回は泣き叫んでる。けれど泣くことは大事とどこかで聞いたので、どこかできいた、そんな不確かな話を信じ泣きながらまたラーメンを食べることにしよう。

 

 

 

 

 

 

75日を辿る決意表明

最近は曇り空ばかり見ているような気がする。

梅雨の時期だし仕方がないとは言え雨が降るようで降らない、そんな微妙な天気は好きじゃない。曇るのであればいっそ清々するぐらい雨が降ってほしい。

 

そんな私は最近の空模様と同じぐらいどんよりとしている。やっぱり外にでて人と接する機会が圧倒的に減ったからだろう。

元々1人が好きだし外にでるのも好まないのだけれど、出ないと出れないというのは違うのだなとこういった時に痛感する。

無性に外にでたくて最近は家の近くのカフェを巡っている、なんて洒落た大学生みたいな趣味も身につけつつある。チェーン店から個人経営の店まで色々なカフェに行ったが、やはり私はルノアールが一番好きだ。

特に大正ロマン風。

厚めの絨毯に、重めの合皮の椅子。灯りはなんとなく薄暗くて、店員さんの服もクラシカルでかわいい。大変かわいい。けどコスパがいいとは言えない、寧ろチェーン店にしては高いだろ、と言いたい値段設定。

味も悪くはないと思うけど、特別贔屓にするほど美味しい訳でもない。

それでも私はルノアールに通ってしまう。

なんでだろ、少し湿っぽい空気感が好きなのかな。結局なんか雰囲気が好きなんやなと適当に結論づけた。

 

ちょっと前、今年の1月末ぐらい。私の心を大層傷つける出来事があった。今思えばまぁそういうこともあるよな、って流させるぐらいの事なのだが、その時は怒りと悲しみでいっぱいだった。しかし今はもはや思い出す事すら稀だ。

あれだけ怒り、泣きわめき、なんなら期末テストさえ放棄して身一つで新幹線にのり大阪に帰っていたというのに。熱海を通過するという新幹線のアナウンスに号泣するのはあれが最後だろう。3列席の真ん中に座って泣いていたので心配したのか両サイドのおじさんがジュースやらお菓子をくれ話を聞いてくれた。

側から見ればなんともシュールな画。

 

そう、これぐらい当時傷つき暴走するような事があっても人というのは簡単に忘れてしまうらしい。その時は苦しみが永遠に続くと感じるのに。けれど、私には未だに一つだけ忘れられない苦しみがある。いや苦しみというか、自分に対して疑問、違和感を感じるキッカケ。

それは私が中学一年生の時に言われた一つの言葉なのだけれど、20を迎えて尚囚われている。

喉に小骨が引っかかっているような状態だ。

75日経てば、そうでなくても時が経てばどんな痛みも忘れられると信じていたのに未だにその小さな傷にはカサブタすらできないのだ。生傷のままである。消えない違和感に苛々する。

 

私に傷を与える言葉を吐いた人とは未だに友人である。といってもLINEも月に数回で、年に一度会う程度の仲だけど。もうすぐその人とご飯を食べる予定がある。別にその出来事があってからも幾度となく会っているし、遊んでいるし別にだからと喧嘩もしたこともない。けれど、私だけが忘れられずいつまでもその小さな傷に囚われている。気持ち悪い気持ち悪い。

 

換気をしようとベランダのドアを開けると、雨に混じって蝉の鳴き声が聞こえてきた。

その人と待ち合わせの時間が近づく。

どうなるか、というか話になるのかすらわからない。私だけが覚えている可能性がでかいのだから。けれど、それでも私は今日、あの時は借りれなかったお酒の力で小骨を流す。

長引きすぎた75日に終わりを告げたい。